Life & Music

シモン・ゴールドベルクの生涯と音楽
第3話

真実を見失う危機を
芸術は救う〜ニーチェ

妻 美代子による、北日本新聞に掲載された文章です。

ールドベルクの生涯は、激しく変動する歴史の流れと共に数奇な展開を重ねて行った。彼の生地、ポーランドも、中部ヨーロッパの現代史の中で、地理、政治地図を幾度もぬり替えられている。
苦難に満ちた生涯を送りつつも、シモン・ゴールドベルクは終生微笑を忘れぬ人であった。人に対し、物事に対し節度を持って丁寧に接した。言葉少なく、静かにあたりを包むような温容、彼という人の風韻には、彼の音楽に響く侵し難い品位が滲み出ている。

二次世界大戦のヨーロッパに於ける戦火を潜り、オーストラリア経由でアメリカに亡命する途中、いくつかの演奏会のために立ち寄った当時のオランダ領、ジャワ島で日本の捕虜になるが、二年半を過ごした収容所の過酷な状況のなかでも、彼の高貴な人柄は捕らわれの身の人々に、失いかけた人間の尊厳を気付かせる光であったと生存者の間で今だに語り継がれていると聞く。彼が亡くなった後、訃報に接したあるオランダ人科学者が新聞に寄稿した記事があった。「ゴールドベルク氏と同じ収容所に入れられていた私は十歳だった。皆のために彼が演奏してくれたバッハの無伴奏ソナタを、私は彼の膝に顔がつく程近くで、蹲って聴いた。それは、この世に至純の美しさが存在することを知るきっかけであった。長じて私はヴァイオリンを嗜み、私の息子も孫もヴァイオリンを愛でている。収容所の生活状況がいよいよ悪化し、音楽など許されなくなってからも、強制作業中、小さな棒杭を右手に持ち指と手首をきれいに動かし「練習」しながら歩いていた彼の姿を今も憶えている──彼の澄んだ眼差しが優しかったことも。ゴールドベルク氏は、子孫に伝えていく尊いものとは何かを私に教えてくれた人である。」

争は彼から多くを奪ったが、彼は、世が世であったならばといった類の感傷を抱くことなど全くなかった人のようであった。自分はどうしてこんな世の中に生まれてきたのだろうといった問いなどは、胎児の寝言のように思えたらしい。それと言うのも、ゴールドベルクにとって生きていくことの課題とは、一日一日がどのように次の日へと充実した繋がりを持つかであり、重い過去も、体験でこそあれ、そこへの執着はなかった。

生涯衰えることのなかった探求心は、極めて透明な彼の感覚と、対象物のエッセンスだけを見抜く力強い直感を源泉に、彼にとって生きることへの情熱であり、また、内的な力として彼を支えるものであったのだと私は思う。 彼は、ひたすら勉強がおもしろく、好きであった。音楽の分野に留まらず、人類が育んだ幾多の叡智を探求し、人間とは、音楽とは何かをその深層において把握することに熱中し続けた。

第二次世界大戦終結の日が漸く訪れ、収容所で離れ離れのまま、お互いの安否を知るてだてもなかったゴールドベルクと妻マリアは再会した。そして、多くの人々の手を経て奇跡的に隠し守られていたヴァイオリンも彼を待ち迎えたのであった。

ールドベルクの戦後の活動は、一年余りの「リハビリ期間」をオーストラリアで過ごした後、1947年秋からオランダを皮切りに再出発する。北欧を含むヨーロッパ各地、アメリカ、カナダ、そして南米、南アと拡がるが、ドイツにだけは二度と足を踏み入れなかった。敗戦国とはいえ、いち早く録音産業に成功した西独は演奏家にとって重要な国であった。しかし彼は、この加害国からのどのような招待をも拒む。その姿勢は毅然としていた。彼は並はずれた包容力をもった人であったが、このことだけは妥協の余地を持たぬ原則であった。

1955年、オランダ政府の要請によりオランダ室内楽団を結成。ヴァイオリニスト、音楽監督、常任指揮者として22年間3000曲を越える作品を通じて彼の音楽は、力強く、独自の光彩を放ち、その密度の高さをもって人々を魅了し続けた。

ゴールドベルクの音楽は、彼の考え方と同様既成の何かに属していない。一つの時代の産物、ある ism の影響からの着想と言ったものではない。彼の堅牢な思考力と卓抜した取捨選択能力を支える背後には、常々、彼がその確保に懸命であった大量の勉強時間があった。己の生涯をかけての構築を、出世や名声のてだてにする功利性などおよそ持たなかった彼は、天職の音楽を追求すべく、自分に課された真の役割に従事するために勉強することを信条としていた。勉強の喜びとは良い勉強をすることから得る充足感であり、また、成し遂げた仕事そのものが、その報償であるということを知り尽くしていたのであろう。55年間連れ添った、七歳年上の妻マリアの病状が悪化の一途を辿り、長きに亘る昼夜の看病のためにとうとうステージを捨ててからも、彼は勉強を続け通した。

が知ってからの彼の日々には、残された時間の全てを徹し、熟知している作品のなかにも、なお、新たな発見への鍵を見出す喜びがあった。世俗的な価値観に対しての大きな無欲、日常的な事柄から常に超然としていた彼を満たしたものは、この喜び、この充実感であったのであろう。

最後まで、凛然と、在りのままの姿でいたゴールドベルクは、人としての道、音楽との関わりあいに対して、自分の理念を徹底して生きぬいてきた静かな確実性に支えられ、心映えの実に爽やかな、ユーモアを湛えた優しい、美しい人であった。
いつも彼のまわりにあった仄かな光の輪が、虹の彼方から今も尚ずっと、彼というこの上なく澄みきった存在を包んでいると思えてならない。

(1998年7月10日掲載)